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1953年7月27日、月曜日午前。板門店で休戦協定が調印された。
戦線の高地の数々は静まり返った。海からは軍艦が帰港し、 戦闘機は飛行場に静かに着陸した。戦争は終わった。休戦だ。南北は即刻2kmずつ後退しながら、両者の間を非武装地帯(Demilitarized Zone)
という緩衝地帯とした。そして、南側にはDMZの後方5~20kmの外側に民間人統制線(Civilian Control Line)というまた別の線が引かれた。
DMZは軍隊の駐屯と武器の配備、軍事施設の設置を禁止するように約束した地帯である。そして、民間人統制線はこの約束を効率的に遵守するために、 その名の通り民間人が居住したり、産業活動ができないように南側の必要に応じて設けられた地帯 である
。 もちろん、北側もこれと似たような、同じような目的の地帯が設けられたはずである。
朝鮮半島の腰の部分を蛇行しながら横断する太い帯は、そのようにして作られた。
その後50年が過ぎて、ひとつの世紀が終り、また別の世紀がやってきた。「 あの帯はどのように変わったのだろうか?」人々の頭の中に、20世紀が地球に残したこの東西冷戦 の傷痕が思い浮かび始めた。
多くの人々が、そこは草木が生い茂り、鳥や魚たちは人間に邪魔されることなく、あらゆる野生動物が遊びまわり、彼らの邪魔者はいないだろうと想像した。
そのような想像が発端となったのだろう。
半世紀前、南と北は戦争によって互いに一方を失ったが、その反面、ひとつの「自然生態系の宝庫」得た事実を発見したのである。半世紀の時を経て、 そこでは自然が自らの 新しい秩序を作り上げ、とても特異な自然生態系を展開していた。戦場を求めてやって来たブタクサが土着植物を追い出す熾烈な領域闘争を繰り広げ、人間が去って誰もいない村を、 アカシア、 柳、葦の茂みが占めていた。
地雷が埋まるその地を人々は恐れたが、自然は何の恐怖感もなしにその地を占領してしまった。 その中にはすでに消えてしまった粟、小豆、燕麦、綿花、とうもろこし、じゃがいもなどがひとりでに育っているようでもあった。そうかと思うと、遠くシベリアから丹頂鶴や真鶴が、 そしてモンゴル高原から鷲が群れをなしてやってくるところでもあり、 絶滅したと思われていた山羊の群れが生息しているところでもある。
そこは、地球にたったひとつしかない戦争自然生態公園なのだ。そこは注意深く覗き見れば覗き見るほど、じっくり考えれば考えるほど興味深いところである。
そこは約50年前、戦争の際に世界各国の武器の性能が試された場である。
そして、今は改善し改良された冷戦両陣営の最先端武器が「展示」されているところだ。
そして、さまざまな戦略と戦術が組まれ、実践されていたところだ。
そして、軍人たちの軍服と階級章、内務生活と軍旗、兵士たちの生活方法など、韓国軍と北朝鮮軍、自由陣営と共産陣営の軍隊に関する過去と現在が存在するところだ。
あらゆる戦争の道具と戦略と戦術が集まる、地球上に1ヵ所しかない、しかも、今も活用されている巨大な戦争博物館なのだ。
第三に、非常に面白いDMZ圏文化が築かれたところだ。全国各地から集まってきた韓国版メルティング・ポット(Melting Pot)とみてもよいだろう。 DMZ、そこは、 また違った文化を生産している社会学の教室なのだ。
第四に、弓裔都城は今、非武装地帯のど真ん中にあり、その跡形と伝説は、非武装地帯に沿って江原道楊口郡の兜率山まで続く。 そして加田里の地雷畑の中には300世帯余りが住んでいた家の跡と、彼らが耕していた田と畑の場所が、半世紀前の風習と文化がそのまま埋まっている。そこは巨大な歴史遺跡であり、文化の塚なのだ。
第五に、鐵原の労働党社は、解放空間に建てられて韓国と北朝鮮の双方の名残が残っている唯一の建物だ。 そして、漢灘江の承日橋は、北朝鮮政権が樹立した年に作られた「橋美学」の真髄であると言われている。
北朝鮮の建築がわかる非常に重要な手がかりなのだ。鐵原の第一メソジスト教会、氷倉庫、東州金融組合、製糸工場、鐵原駅、月井駅などは、1910年から解放の時まで日本が建設していた都市遺跡だ。
その残骸は今、当時の建築技術と当時の人々の考えを物語っている。
そこは、われわれが悟ることができずに放置している世界的な建築・土木史博物館なのである。
そして、そこはオリ山から噴出した溶岩が作り上げた鐵原平野と、隕石が落ちてえぐられた海岸盆地がある地理学の教室であり 、戦争をしている間、12人のキリスト教徒が殉教した「バイブルルート」でもある。そこは、20世紀が残した冷戦遺跡なのだ。 その上、20世紀以前の韓国がそのまま残る「韓国自然史博物館」なのだ。
DMZは、韓国人はもちろん、韓国を訪れる外国人まで訪れて感じてみたくなるほどの、全く思いがけない資源を遺産として残した。
DMZは軍隊の駐屯と武器の配備、軍事施設の設置を禁止するように約束した地帯である。そして、民間人統制線はこの約束を効率的に遵守するために、 その名の通り民間人が居住したり、産業活動ができないように南側の必要に応じて設けられた地帯 である
。 もちろん、北側もこれと似たような、同じような目的の地帯が設けられたはずである。
朝鮮半島の腰の部分を蛇行しながら横断する太い帯は、そのようにして作られた。
その後50年が過ぎて、ひとつの世紀が終り、また別の世紀がやってきた。「 あの帯はどのように変わったのだろうか?」人々の頭の中に、20世紀が地球に残したこの東西冷戦 の傷痕が思い浮かび始めた。
多くの人々が、そこは草木が生い茂り、鳥や魚たちは人間に邪魔されることなく、あらゆる野生動物が遊びまわり、彼らの邪魔者はいないだろうと想像した。
そのような想像が発端となったのだろう。
半世紀前、南と北は戦争によって互いに一方を失ったが、その反面、ひとつの「自然生態系の宝庫」得た事実を発見したのである。半世紀の時を経て、 そこでは自然が自らの 新しい秩序を作り上げ、とても特異な自然生態系を展開していた。戦場を求めてやって来たブタクサが土着植物を追い出す熾烈な領域闘争を繰り広げ、人間が去って誰もいない村を、 アカシア、 柳、葦の茂みが占めていた。
地雷が埋まるその地を人々は恐れたが、自然は何の恐怖感もなしにその地を占領してしまった。 その中にはすでに消えてしまった粟、小豆、燕麦、綿花、とうもろこし、じゃがいもなどがひとりでに育っているようでもあった。そうかと思うと、遠くシベリアから丹頂鶴や真鶴が、 そしてモンゴル高原から鷲が群れをなしてやってくるところでもあり、 絶滅したと思われていた山羊の群れが生息しているところでもある。
そこは、地球にたったひとつしかない戦争自然生態公園なのだ。そこは注意深く覗き見れば覗き見るほど、じっくり考えれば考えるほど興味深いところである。
そこは約50年前、戦争の際に世界各国の武器の性能が試された場である。
そして、今は改善し改良された冷戦両陣営の最先端武器が「展示」されているところだ。
そして、さまざまな戦略と戦術が組まれ、実践されていたところだ。
そして、軍人たちの軍服と階級章、内務生活と軍旗、兵士たちの生活方法など、韓国軍と北朝鮮軍、自由陣営と共産陣営の軍隊に関する過去と現在が存在するところだ。
あらゆる戦争の道具と戦略と戦術が集まる、地球上に1ヵ所しかない、しかも、今も活用されている巨大な戦争博物館なのだ。
第三に、非常に面白いDMZ圏文化が築かれたところだ。全国各地から集まってきた韓国版メルティング・ポット(Melting Pot)とみてもよいだろう。 DMZ、そこは、 また違った文化を生産している社会学の教室なのだ。
第四に、弓裔都城は今、非武装地帯のど真ん中にあり、その跡形と伝説は、非武装地帯に沿って江原道楊口郡の兜率山まで続く。 そして加田里の地雷畑の中には300世帯余りが住んでいた家の跡と、彼らが耕していた田と畑の場所が、半世紀前の風習と文化がそのまま埋まっている。そこは巨大な歴史遺跡であり、文化の塚なのだ。
第五に、鐵原の労働党社は、解放空間に建てられて韓国と北朝鮮の双方の名残が残っている唯一の建物だ。 そして、漢灘江の承日橋は、北朝鮮政権が樹立した年に作られた「橋美学」の真髄であると言われている。
北朝鮮の建築がわかる非常に重要な手がかりなのだ。鐵原の第一メソジスト教会、氷倉庫、東州金融組合、製糸工場、鐵原駅、月井駅などは、1910年から解放の時まで日本が建設していた都市遺跡だ。
その残骸は今、当時の建築技術と当時の人々の考えを物語っている。
そこは、われわれが悟ることができずに放置している世界的な建築・土木史博物館なのである。
そして、そこはオリ山から噴出した溶岩が作り上げた鐵原平野と、隕石が落ちてえぐられた海岸盆地がある地理学の教室であり 、戦争をしている間、12人のキリスト教徒が殉教した「バイブルルート」でもある。そこは、20世紀が残した冷戦遺跡なのだ。 その上、20世紀以前の韓国がそのまま残る「韓国自然史博物館」なのだ。
DMZは、韓国人はもちろん、韓国を訪れる外国人まで訪れて感じてみたくなるほどの、全く思いがけない資源を遺産として残した。
최근 업데이트 2023-01-18