- 朴壽根 (1914~1965)
- 金裕貞 (1908~1937)
- 可山 李孝石 (1907~1942)
- 超抦 金東鳴 (1901~1968)
- 萬海 韓龍雲 (1897~1944)
- 翰西 南宮檍 (1863~1939)
- 朴寅煥 (1926~1956)
- 尹熙順 (1860~1935)
- 毅菴 柳麟錫 (1842~1915)
- 蘭皐 金炳淵 (1807~1863)
- 藥泉 南九萬 (1629- 1711)
- 眉スウ 許穆 (1595~1682)
- 蛟山 許筠 (1569~1618)
- 蘭雪軒 許楚姬 (1563~1589)
- 申師任堂 (1504~1551)
- 梅月堂 金時習 (1434~1493)
- 耘谷 元天錫 (1330~ ?)
- 動安居士 李承休 (1224~1300)
動安居士・李承休 (1224~1300)
高麗後期の文人官吏で雅号は動安居士であり、嘉利李氏の始祖である。
幼い時期に父を失い、学問に励んで 1252年(高宗39年)に科挙に合格したが、母が暮らしている三陟の頭陀山龜洞に移って0年余りの間、自ら農作をしながら母を奉養した。
1264年(元宗 5年)、慶興府の書記として官職に就いた後、都兵馬録事、監察御史、右司諫、楊廣・忠淸按廉使を経て、1298年(忠烈王24年) には密直副使に任じられた。1280年(忠烈王6年)、国王の失政と側近たちの専横を諫言して罷免され、三陟・龜洞に帰り、容安堂を建てて隠居生活をしながら『帝王韻紀』と『内典録』 を著述した。 晩年には仏教に没入して容安堂を看藏寺に変えて土地を喜捨した。
幼い時期に父を失い、学問に励んで 1252年(高宗39年)に科挙に合格したが、母が暮らしている三陟の頭陀山龜洞に移って0年余りの間、自ら農作をしながら母を奉養した。
1264年(元宗 5年)、慶興府の書記として官職に就いた後、都兵馬録事、監察御史、右司諫、楊廣・忠淸按廉使を経て、1298年(忠烈王24年) には密直副使に任じられた。1280年(忠烈王6年)、国王の失政と側近たちの専横を諫言して罷免され、三陟・龜洞に帰り、容安堂を建てて隠居生活をしながら『帝王韻紀』と『内典録』 を著述した。 晩年には仏教に没入して容安堂を看藏寺に変えて土地を喜捨した。
『帝王韻紀』は、元から政治的な干渉を受けていた当時の新人士類の歴史意識を物語る 貴重な資料であり、
民族文化の優越性と歴史伝統に対する強烈な自負心がうかがえる自主的な歴史書であり、韓国の民族史観の基礎を築いた重要な文化遺産である。
최근 업데이트 2023-01-18